2016年御翼5月号その4

日本人の汎神論とキリスト教 ―― 佐々木正明牧師

 

 旧約聖書は多神論文化の人々を読者に想定している。イスラエル人は一神教のはずだが、ユダヤ人は常に多神論の脅威にさらされていた。太陽の神、月の神、星の神、牛の神、あるいは豊穣の神、多産の神と、際限なく続く多神教の中に生きる人々に対し、「本当の神はそのようなものではなく、天地万物を造った神だ」と言っているのが、創世記の始めの天地創造の物語である。以下は、佐々木正明牧師による、「日本の宣教を考える 日本人の汎神論とキリスト教(2011年4月16日)」からである。

 私たちはいま、聖書が書かれた土地と時代の文化とは遠くはなれた日本で、多神論の感覚ではなく、むしろ汎神論的感覚の中に生きています。【汎神論=あらゆるものの背後に神の存在を認める。多神教・一神教問わずほとんどの宗教の神理解に存在しているとされる。多神教だと思われがちな仏教も、汎神論または無神論的な宗教であるとする見解もあり、議論が分かれるところである。】日本人の多くは、多神論を幼稚なものとあざ笑っているのです。それぞれの神社には、それぞれが祀るそれぞれの神があります。でも一般的な日本人はその様なことには無頓着です。それらの表面的なことの向こうに、大きく、強く、気高く、優しい、目に見えない方がいて、自分の命の元となっておられるお方がおられると感じて、感謝をと祈りを捧げるのです。それは限りなく一神教に近い感覚です。
 日本人は旧約聖書が糾弾するような意味での偶像礼拝者ではないのです(出エジプト記20・4「あなたはいかなる像も造ってはならない」)。彼らは汎神論者なのです。ただ、そのすべての物の内に内在される神が、誰なのか、どなたなのかを、知らないままに生きているのです。西欧を周って来たキリスト教は、日本人の汎神論的感覚を理解することができませんでした。今も出来ていません。そのために、世界に一般的な多神論と見分けをつけることが出来ず、八百万の神々を祀る偶像礼拝者として糾弾したのです。日本人を偶像礼拝者と決め付け、敵対意識で語ることはやめましょう。日本人は、知られざる神を知らないまま礼拝しているのです。知らないままですから、無知からくる間違いはたくさんあります。でもそれは、聖書を持って、知っていながらたくさんの間違いを犯している、欧米周りの私たちのキリスト教に比べて、決して劣るものではありません。
 日本人の意識の深くにある宗教心に、聖書の教えと共通するところがある事を積極的に認め、それらを高く評価する努力をしましょう。

 佐々木正明 大陸生まれ北海道育ち、東京、復帰前の沖縄、フィリピン北部の山岳未開民族、そして長崎県佐世保市で長い間聖書を教える。

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